上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

以下はある医学生を対象とした集会での講演メモである。講演ではスライドなども用いているために文章だけ取り出すとつながりの悪い点があるかもしれないが、その伝えんとする内容はそうであっても損なわれていないと考えるため、ここに転載する。




技術が発達するに従って、いろいろなことが可能になってきた。
体外授精技術を用いれば、「いい父親」と「いい母親」から「優れた子供」を生み出すことができる。さらに進化した遺伝子工学を用いれば、子供の遺伝子そのものを直接的に操作することにより「優れた子供」を狙って作れるようになってくる。デザイナーチルドレン。
美容整形手術にはなんだか違和感を感じるがまだ許容できる。けれど、サイボーグのように強化された人間というのはどうだろうか。
鬱になってしまったときに気分を向上させる薬を用いるのはわかる。しかし、もしその薬を平常時に用いたらどうなるのだろうか。快感を感じるために薬をつかうというのは、麻薬とどこが違うのだろうか。
こうしたテクノロジーの進歩によって可能になってきたことには、なんだか不安を感じる。しかし、なぜそのような不安を感じるのか。

そうしたテクノロジーが引き起こす問題については、個別のものとして議論されてくる傾向があった。しかしそれらには、「自然であること」の道徳的地位や、世界に向き合って生きていく人間の適切なあり方というものを侵害しているという共通する問題を抱えている。こうした議論は宗教などとの区別がつけにくく、政治家や教育者はあまり語りたがらない。しかし現実に我々はそうした問題に直面しているのだから、目をそらしてはいけない。そこで今、エンハンスメントという概念を提出することでそれらに共通する問題点を明確にし、考える手助けとしていきたいのである。。。。




今回の目的。
・エンハンスメントという問題があることを理解してもらう
・エンハンスメントが医療関係者にとってどういう影響をもつのか、想像してもらう


・エンハンスメントとはなにか(英語部分はとばすか?)
Human enhancement refers to any attempt to temporarily or permanently overcome the current limitations of the human body through natural or artificial means. The term is sometimes applied to the use of technological means to select or alter human characteristics and capacities, whether or not the alteration results in characteristics and capacities that lie beyond the existing human range. Here, the test is whether the technology is used for non-therapeutic purposes. Some bioethicists restrict the term to the non-therapeutic application of specific technologies — neuro-, cyber-, gene-, and nano-technologies — to human biology.[1][2]
--wikipedia


英語版のWikipediaによるエンハンスメントの定義だ。ここで不親切にも英語版をとってきたのには訳がある。検索してみればわかるが、日本語版のWikipediaには「エンハンスメント」という項目がない。自分で項目をつくってしまおうかと思ったが、せっかく「日本では広まっていない」ということをアピールするチャンスなのに自分で消してしまうのは惜しいと止めた。ぜひ今日帰ったら、Wikipediaにエンハンスメントの項目を執筆してほしい。みなさんで編集合戦を繰り広げて頂いてかまわない。そしたら僕も参戦する。




enhance・・・・(価値・質・魅力を)高める、より良くする
enhancement・・・・(物の価値・特質・魅力などを)高めること、改良、増進
英単語としてのEnhancementの意味。今から僕が使うEnhancementは日本語にすれば肉体増強とでもいう意味になる。


つまりエンハンスメントとは、人間が持つさまざまな特性や能力を技術的な手段によって強化し、向上させることを意味する。エンハンスメントについて問題を提起した有名な本にアメリカの生命倫理評議会の報告書として出された「治療を超えて」というものがあるが、エンハンスメントが意味することはまさにそれで、エンハンスメントは「治療」するという段階を超えて技術を用いてしまうことにより人間の能力をエンハンスしてしまうことを意味している。”Enhance”。
その際に用いられる技術的手段は非常に多様で、大きくとらえれば医学や遺伝学、工学、薬学、バイオテクノロジー、脳神経科学、ナノテクノロジーなどなど、使えるものはなんでもという勢いだ。具体的にいえば、薬物の服用し神経伝達を活性化させることにより記憶力を増強したり、感情を高ぶらせたり落ち着かせたりすること、また循環器にちょっと手を加えることによって心肺能力を高め身体的運動能力を増強したりすることなどが直近に起きそうなエンハンスメントの例として考えられる。また、将来的に可能になってくるかもしれないと考えられることは、例えば聴覚を強化して超音波を聞き分けられるようにすることで人間がコウモリちっくにレーダーを使えるようになることとか、今までは見えなかった紫外線・赤外線領域の光線をも区別できるように視覚を増強して暗視スコープができるようになるとかいった人間忍者化計画や、脳とコンピューターを直接結びつけることでいろいろなことが可能になるだろうといわれているBrainMacine Interface BMIを用いて人間の思考やコミュニケーションのあり方は今までとは全く別のものになるかも知れないし、またさらにそれを応用して人間の人格そのものをサイバー空間に組み込むことによってバーチャルな世界のなかで人間が生きるようになるかもしれない。
これらはSFの世界の話だとして常識ある人たちには一蹴されてしまいそうではある。けれどもエンハンスメントに関する議論ではそれらを真剣な議論の対象として扱う。それらは今の時点では非現実的であるように見えたとしても今後いずれかの時点で現実的なものとなりうるものなのであり、実際そのような変化をなしとげそうな技術の進歩の萌芽はいたるところにみられる。いわせてもらえば、それらをSFの話だとして一蹴する人たちは想像力を欠いているのであり、考えることなしに破滅へとつながるかもしれない道を進み続ける愚か者であるといわざるを得ない。

例えば、医療業界の一部においては原発産業への反対意見が根強くある。そういった意見によれば、原子力村は便利さという甘い果実を誇張しながら自らの利益に執着した愚か者たちであり、そうであるために来たるべき悲劇を予見することができず”フクシマ”をもたらした、ということである。彼らには利益しか見えておらず大局的視点を持てていなかった。それはそこに官と民の癒着があったためであり、そうであるために幅広い意見を取り入れることができなかった。また信頼すべき彼らが「原子力は夢のエネルギー源」と主張する広報活動を繰り返したがために国民はその方向性に疑問を抱くことすらできなかった。もちろんその方向性に疑問を抱く人はいるにはいたが、そうした意見は抑圧されたらしい。
ここで原発問題のこんな話は持ち出したくなかったのだが、この問題の構図がエンハンスメントの抱える問題の構図とあまりにも似通っていると思わざるを得ないために引き合いに出してしまった。当然のことだが、原発村の人たちは”フクシマの悲劇’を起こすために働いていたわけではない。彼らも事故以前は「よりよい生活」のための「よりよい電力供給」のために身を粉にして働いているつもりだったのだろう。そうすることでリスクが生まれているとしてもそれは生み出される善によって相殺されるものだと信じていたのだろう。そうであるからこそ「原発は危ない」という意見があったとしても、「SFに過ぎない」と却下することが可能だったのであり、「確実に原発は危ない」と信じていながら目先の利益のためにそれに気づかないふりをしたというのではないだろうと思われる。もしそうである人がいたとしてもそれはきわめて少数で、大多数の者は自らがみなのために善いことをしていると信じていただろうと思う。ではなにが悪かったかといえばやはり想像力の欠如なのであり、危険性を指摘されてもそれを現実に起こりうることとして想像できなかったことに問題があって、それは現実にプロジェクトを進行した原子力村構成員にもデマゴーグに踊らされた大衆にも共通する問題点だったといえる。
翻って医療業界について考えてみれば、「医療技術の進歩により患者さんを助けるのは良いことだ」という神話が根強くある。そして医療従事者はその神話のもとみな「善いこと」をしていると信じ込んでいる。社会もみなそれが良いと信じている。国も推進している。癒着があるのかどうかについては詳しくないが、市井の医療も大学での研究も医療行政も「医師国家資格」をもった一部の集団により進められていることはたしかだ。加えて、技術が進歩すれば彼らはなんらかの形で利益をうけるだろうことは容易に想像される。そんななかであるからこそ、あえて「原発は危険だ」という主張を紹介したいと思う。



・なぜエンハンスメントがよくないのか

「人間の能力を強化してなにが悪いのか?」と思うかも知れない。能力は強化できればできるほどいいのだ・・・・。そんなよりよくありたい、より強くありたいという思いがぶつかりあう場の最たる例はオリンピックだ。ところがそこでは、能力を高め人間をより強くするエンハンスメントの一種であるドーピングが、どういうわけか禁じられてしまっている。能力は高ければ高い方が良いのに、その能力を高めるためにドーピングを用いることはなぜいけないのだろうか。普段からエンハンスメントに直面している分野においてこの問題がどのように対処されているかということは非常に示唆的だと思われるため、まずこのことについてみておくことにする。

日本アンチドーピング機構というというものがあり、これはまさにその名の通りの団体なのだが、それによるとドーピングをしてはいけない理由として、
1,自分を信じて最善の努力をし、懸命に勝利を目指そうとすること-Excellence
2,仲間を信じること-Friendship
3,対戦相手や仲間を尊敬すること-Respect
という「みなが決められたルールに従い全力で取り組んできたからこそ得られたもの」としての「スポーツの価値」の基盤をあげ、フェアでないドーピングをすることはそれを壊すことになるとしてドーピングはいけないとホームページにて説明している。

しかし、この説明ではドーピングをしてはいけない理由を全く説明し切れていない。ドーピングをすることがフェアでないという主張は一見正しいように思われる。けれども皆がドーピングをしたならばその時点でそのドーピングもフェアなものになるはずなのだから、ドーピングをすることそのものが「フェアでない」のではなくて、ルールを破ってドーピングをすることが「フェアではない」というだけのことになる。とすればフェアであることを確保するためには「ルールを破る」という行為が起きないようにすればいいわけであるが、そのためには「ルールを破らないようにすること」を呼びかけるのではなくルールそのものを廃止してしまえばいい、ということになる。これではドーピングを肯定しているような格好になってしまう。

そうであるのにアンチドーピング機構がこのような説明を用いたのには、一般にドーピングをすることが「倫理に反する」と認識されていることを前提としたからであろうと考えられる。ではなぜドーピングをすることが倫理に反すると思えるのか。

ドーピングがよくないことであることの理由として一般にいわれているのは
1、選手自身の健康を害する
2、アンフェアでありスポーツの価値を損ねる
3、社会に悪い影響を与える
というものである。
1はドーピングに用いられる薬が副作用を持つこと、2はドーピングした人としない人との不公平ということだがそれは先ほど述べた通りのことで、3については社会的スターであるアスリートがドーピングをすることにより社会に悪い影響をあたえるということだが、やはりドーピングは悪いことだとする価値観に基づいた意見でありなぜドーピングが悪いのかを説明できていない。
その他の見解としては哲学者の加藤尚武がドーピング規制について、
”ドーピングは自己危害の範疇で個人の管理にゆだねられるが、やはり選手の健康を現実に損なうわけで、そうだとするとドーピングを認め勝つためにはみなドーピングをしなければならなくなったとき、自己責任であったはずの健康を害することが他の人にも強制されることになってしまうため自己責任ではなくなるから、ドーピングをする自由はやっぱり身勝手な自由で許されるべきものではない”
といったことを述べていた。

これらの主張ではドーピングが倫理に反するといえる理由は結局のところ「ドーピングは体に悪いから」だけであるが、それだけの理由でドーピングは悪いとされているのだろうか。もし身体能力を高めるが健康被害は一切ださないというドーピング薬が開発された場合、ドーピングは悪いことではなくなるのだろうか。また、寿命を20年縮めるが圧倒的な効果を発揮するドーピング薬が開発され、5歳から25歳まで強化選手として毎日毎日トレーニングにあけくれてきた人をたった一度の服薬により打ち負かせるようになったとき、それは健康を害したというのだろうか?20年もの間過酷なトレーニングに励ませるほうがが大いに精神的健康を損なっているのではないだろうか?
また、ドーピングではないが、同じ効果をもつこととして器具の使用がある。かつて話題になった水着の件のように、健康を損なうわけではないのに禁止されてものはいった何だったのだろうか。

こうしたことを考えていくと、ドーピングを禁止する理由には健康問題だけではない側面が大きく絡んでいることが見えてくる。けれども、ドーピングに関する話題ではそのことは表だっては議論されていない。これが現実なのである。エンハンスメントに現実に直面しているオリンピックのドーピングという分野でも、それがなぜいけないかということを明示的に示していない。逃げているわけだ。しかしこれはエンハンスメントという哲学的に非常に大きなテーマから目をそらしているとすれば簡単に説明がつく。そうではあるのだが、それが非常に哲学的な話題でありたとえ明示的な説明がすぐにできないとしてもドーピングが禁止される理由は簡単に想像できる。それは明らかに「普通の人間が普通に競技するのが普通なんだ」という思想があることに関係する。ドーピングをした人間はもはや普通の状態の人間ではなく、それ故に競技は普通の状態ではなくなってしまうというわけだ。どうやら我々は、「普通」の状態に対して何らかのこだわりをもっているようだ。



ドーピングとは別の例を考えてみることにする。生殖技術についてだ。まずはクローン人間を取り上げてみる。一般的にクローン人間と聞くとなんだかやってはいけないことだと思えると思う。実際に多くの国ではクローン人間の作成が禁止されている。しかし、なぜクローン人間は禁止されているのだろうか。

クローン人間とは無性生殖により生み出される人間のことである。その技術を用いれば、遺伝的に全く同一の個体を作ることができる。原理的にはどんな人間からでもクローン人間は制作可能で、亡くなってしまった美しい妻の冷凍保存してあった細胞から作ることだってできる。原型は現在生きていようが死んでいようが関係ないのだ。また同じ個体を複数作ることも可能だ。クローン人間の軍隊というのも、原理的には可能なわけである。通常の人間は有性生殖の過程を経て2人の両親からこの世に1人だけの存在として生まれてくるのであるから、その誕生の仕方はたしかに異常だ。
けれども後に述べるように(別の回で)、クローン人間はその誕生方法が異常だということ以外は何ら普通の人間と変わったところはない。それでも我々はクローン人間はいけないと直感的に思うわけである。なぜなら人間は産まれるものであるのに、クローン人間は作られるものであり、自然でないからだ。クローン人間を作成するとき、それまで機械とは区別されるべき存在だった人間が機械と同様に製造される対象になってしまう。人間の機械化である。人間はよりよく生きるために科学技術をもちいて自然を征服してきたが、ついに人間そのものをも征服してしまいそうになってしるのだ。クローン人間はいけないと思うときに我々はその危うい倒錯を本能的に感じているのかもしれない。

クローン技術は現在の時点ではまだ現実のものとはなっていないが、関係する技術は着実に現実のものとなりつつある。人工中絶や避妊は案外一般的に行われているようだ。かつてはかなり異端とされた体外受精も現在ではありふれた手段となってきた。培養胚、代理母なんていうのも行われているところでは行われている。そして遺伝子スクリーニング・・・。クローン人間は危ういものとして禁止されているが、そこへとつながるための様々な技術は着々と現実に用いられるようになってきている。開発された当時はそれは「倫理に反する」技術だといわれたのに、いつのまにか「許容できる」ことになってしまった。とすれば、いつかクローン人間も「許容可能」になってしまうのだろうか。クローン人間は明らかに異常なのではなかったのか。それが普通に行われる世界になってもいいのか。

そんなことを考えるとき、WHOによる健康の定義はかなり危険なものといえる。
「 健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいう。」
すべてが満たされた状態なんてあるのだろうか。人間の欲望には限りがなく、かつて満足するだろうと思えたところに達したとき、それはすでに満足な状態ではなくなっているものなのに、だ。

ところが実際、そのような「治療をこえた許容できないこと」と「許容できる治療」というものの区別は、恐ろしく曖昧に存在する。概念上でエンハンスメントを議論しているうちには「治療」ならいいけれど「治療をこえたこと」はしていはいけないと簡単に結論が出せてしまうのだが、現実にはその間の線引きができないのだ。それがどういうことかということは、具体的な事例をみてみればすぐにわかる。


たとえば、筋ジストロフィーの症状緩和や加齢に伴って発生する筋肉の低下を防ぐための遺伝子治療が開発されたとしたら、喜ばしいことに違いない。実際にマウスに合成遺伝子を組み込むことによってその目的が達成されてきている。ところがこの技術を使いたいと願うのはそうした患者だけではない。競争に勝つことを願うスポーツ選手もまた、その技術を使いたくてたまらないだろう。彼らのいい結果を出したいという思いは強く、禁止されていても薬物に手を伸ばしてしまうほどなのだ。しかし遺伝的に改良された選手たちが競う競技会というのは、ドーピングが密かに行われているかも知れないオリンピックなんかよりも遙かに気味の悪いものだ。加えて、遺伝子改良は薬物検査では検知できそうもない。
(※脱線するので省略加えて、優れた才能がある選手が両親から受け継いだ遺伝的子は生来のドーピングとさえ言えそうだが、それについては違和感は感じられていないようである。)

似たような例はたくさんある。それは肉体的なことだけにとどまらず、知力の面でも同じようなことがいえる。例えばアルツハイマー病や認知症の治療に役立つ遺伝子の導入や、薬物の使用だ。具体的な効果としては、記憶力の強化ということになる。これも実際に開発が進んでおり、記憶力を強化されたマウスや、脳の記憶領域の働きを活性化させる薬の開発がすすめられている。患者にとってみれば、これは実に望ましい結果だ。ところが学生を対象としてこの技術を用いるということを考えたとき、それはどうだろうか。薬物によって記憶力を強化された学生の残す成績は、カンニングをして良い成績を収める学生とどう違うというのか。
(※哲学的な方向に脱線するから省略カンニングはなぜいけないのか?)

具体例は、まだまだたくさんある。病的なホルモン分泌の問題により身長が伸びない子供がいるとき、その子に成長ホルモンを投与することは治療だ。ところがバスケットボールで活躍したと願う子供がホルモンの投与を求めてきたらどうだろうか。それは明らかに治療ではなく、改良だ。エンハンスメントだ。許容できる話ではない。では、両親からの遺伝でそもそも背が高くない子供にホルモンを注入することはどうか。その子供にとってはその身長が自然なのであり、より高くなりたいというのは改良への願望に過ぎないということもできる。ところが忘れられている事実が一つあって、その子供の現在の身長はホルモン欠乏症の子供よりも低いということだったらどうか。その子にとってみれば病気の子供は自分よりも背が高いにもかかわらず身長を伸ばすことを許容されているのに、それよりも背が低い自分にその許可が下りないというのは全く理不尽であるに違いない。治療と改良の間に客観的な基準をつけようとする試みは、このようにして失敗してしまう。


スポーツ選手は心肺機能を鍛えるために標高の高い土地でトレーニングをしたりする。そうすることによって酸素消費の能力を鍛えることができ、よりたかいパフォーマンスを発揮することができるからだ。同じような効果は、人工的に赤血球を増やした血液を輸血することや、赤血球を多く生産するようホルモンによって刺激を与えることでも得られるという。これは血液ドーピングとも呼ばれ禁止されている。
ではこれはどうだろうか。ある企業は高地トレーニングという方法に目をつけ、人工的に酸素濃度を落とし高地トレーニングと同じ効果を得ることができるトレーニング施設を建設した。その施設のなかで暮らすこと自体がトレーニングになるというわけだ。これなら高地トレーニングと同じことをしているから問題ない、と思うかも知れない。しかしその作用機序は血液ドーピングと同じなのであり、パフォーマンスのために技術が介入するという点でも違いはない。とすればこのトレーニング方法は問題があるものなのだろうか。すると、高地トレーニングも問題があるように思えてきてしまう。そもそも高地でトレーニングするという発想が反則だったのだろうか。確かに、人間はみな同じ土俵のもとで競うべきではある。しかし現実に高地というものが存在しそこがトレーニング可能な地であるというのに、そこでトレーニングすることがいけないのだろうか。

同じことは、食事についても言える。一般に、食事には皆目注意を払わずただ単にトレーニングに励むことだけによって筋肉をつけようというのは非効率であるらしい。より効率的に筋肉をつけるためには、肉や卵といったタンパク質をとる必要があるとのことだ。しかし世の中にはより吸収効率の良いタンパク質が出回っているとのことで、手っ取り早く筋肉をつけたいひとはプロテインを飲むといいという。だが、プロテインは人工的に作られたものだ。これを飲むこととステロイド薬を服用することの違いは、一体どこにあるというのだろうか。


問題になるのはスポーツの領域だけではない。緊張は音楽家にとって大敵であり、手を震えさせたりのびのびとした演奏をできなくさせたりする。ところが心臓病の治療薬として開発されたベータ遮断剤を服用すれば、心拍数が低下し落ち着きを得られるという。このような薬を服用することは不正であり、緊張を自分で押さえることも音楽家の資質の一つだという人もいるが、薬剤の使用は演奏自体をよくするものではなく、その音楽家が本来もつ能力を十分に発揮するための障害を取り除くに過ぎないという人もいる。能力そのものをエンハンスすることと、能力を発揮できるように環境をエンハンスすることは同じなのだろうか。

音楽家といえば、オペラ歌手の美徳の一つはに大きく声を響かせられることというものがあるらしい。ところがマイクが出現したことによって、その美徳は機械によって容易に補正されるようになってしまった。マイクは明らかに不正そうに思える。けれどもオペラ歌手の中には音楽堂の音響設備もエンハンスメントだという人たちもいる。しかし、それが不正であるとしても、聴衆は肉体だけでがんばる崇高にして響きのないオペラと設備によって強化された堕落ではあるが響き豊かなオペラと、どちらを聴きたがるだろうか。最近実際にあった例でいってみても、例えば野球界ではより多くのホームランがみたいと願う観客に迎合してか飛びにくいものから飛びやすいものへと密かにボールをすり替えていたという問題が起きていたではないか・・・・。

似たような問題はまだたくさんある。裸で泳ぐことと、水泳キャップを被ること、足ひれをつけること。野球でバットやグローブを使うことでさえも怪しい。競技とは自然な姿で競い合うことであるならば、帽子を被ったり道具を使ったりして能力をエンハンスするのはいかがなものだろうか。

際どい例はまだまだある。一般的な親は、よりちゃんとした子供になってほしいと子供に教育を施す。「無教育な」という言葉が軽蔑を意味する言葉となっているように、誰だって自分の子供にはしっかりしていてほしいものだ。それは自然な感覚だ。子供が野生人みたいであっては困る。ところがその感情が思いあまって薬物や遺伝子改良に頼るようになってしまったとき、不自然さを感じずにはいられない。具体的にその介入がいけない理由を挙げようとすれば、それはお金のある一部の人にしかできないことであるかもしれないし、子供の意志にかかわらず強制的に施されるものであるし、といったことがあがるかもしれない。しかし、そのこと子供に英才教育を施すことにはどんな違いがあるだろうか。極端な英才教育とはいかないまでも、小さい頃から塾に通うといった姿のなかにも、その介入と違うところがなにか見つかるだろうか。

しかも、そのように幼少時から”たたき込むということをしないと”頭角を現しにくいという分野もあるかも知れない。有名な話では、イチローは子供のころにチチローにつれられてバッティングセンターに通っていたということだ。あるスポーツ好きの親が子供が小さな頃からそのスポーツのためのトレーニングを始めるというのはよく聞く話だ。そのようなとき、子供はそのスポーツをしたいと思っているのではなく、強制的に操作せられているのだ。例え大きくなってそのスポーツが好きになったとしても、そう思うように育てられたからだとさえ言える。そのような教育法と、技術を介入させるエンハンスメントとの違いは一体何なのだろうか。そしてほんのちょっと気を許したすきに、技術にエンハンスされていなければそのような分野では頭角を現せないということになってしまっているのではないか。

現在でも世の中には気分を高揚させる薬があれば、気分を落ち着ける薬だってある。そのうち、薬によって自分の感情を自由に操れるようになる時代が来ないとどうして言えようか。そのような薬ができたら誰だって使ってみたい欲求に駆られるのは明らかだ。(先日もある医学部の教授と「そんな薬があったら使っちゃうね」みたいな話をしていたばかりだ。)それだけではない、そのような薬ができてきたとき、不機嫌であることは病気と見なされ治療の対象となってしまうかもしれない。実際、集中力を増強する薬リタリンの普及以降、アメリカでは注意欠陥障害ADDの患者数は増え続け、さらにより多くの症状をふくむよう注意欠陥多動性障害ADHDと定義の変更まで加えられた。それは実際により多くの人がADHDに陥るようになったのではなく、かつてはちょっとscatterbrainだとされていた人たちが病気だと判定されるようになってきたということに他ならない。気分を自由に変えられる薬が開発されたとき、不機嫌が病気になったとしても全然不思議ではないのだ。それだけではない、寡黙な性質を持つ人は社交性障害とでもいうべき障害をもつことになるかもしれないし、陽気な人は喧騒性障害とでもいうべき障害をもつことになっているかもしれない。それがいろいろな性質を持つ人を強制的に治療する題目になるのか、あるいはそのような人たちが病気を理由に新たな保護される権利を訴えるようになるか、その結果はわからない。けれどもそのどちらであるにしても自然でないことだけは確かだ。自然でないどころか、異常すぎる。


そういった自分の感情を薬によって自由に扱ってしまうというのはSFではよく出てくる話で、映画名はブレードランナーだったか「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」でもでてきていたし、そういったテーマを主題として扱った偉大な小説もある。オルダス・ハックスリーの「すばらしい新世界」だ。これはこうした世界がきかねないことをはるか昔に見抜いていた。舞台となるのは今から700年ほど先の世界。人間は工場内で作られ、工場内で人工容器内に存在する胎児のうちに教育を受ける。世界中に申し分のない博愛主義が満ちているため、争いは存在しない。病気が存在しなければ苦悩も存在しない。それでももしなにか不快なことがあったとしたら、安楽を感じさせてくれる薬である「ソーマ」を飲めばいい。至高の快楽を感じることができる。面倒な仕事はすべて機械が済ませてくれる。人間はただ安逸を楽しめば良い。こうして人類は共同体として安定した繁栄をとげることができるようになる・・・・。

こうした苦しみのない世界は理想世界だと思うかも知れない。けれども読んでみればすぐに分かると思うが、これはユートピア小説ではなくディストピア小説なのだ。かれらは高い志は一切もたない。激しい感情の昂ぶりは存在しない。道徳的判断も行われない。彼らはただ単に薄っぺらな快楽におぼれるだけの堕落した存在で、主体性など微塵もない。彼らにはもはや人間性と呼べるものは残っていない。皆幸せだと思って暮らしているとしても、その幸せは麻薬によって生み出されたきわめて異常な次元での幸せなのだ。そんな世界に住みたいだろうか。
(この小説は早川書房より出されている世界SF全集第十巻にて、これまた同じく非常に傑作なジョージ・オーウェルの1984年とともに収録されているからぜひ読んでみてほしい)


この小説がより示唆的なのはその世界で暮らす人々にとってその世界は全く違和感のない世界、自然な世界だということだ。彼らのほとんどは自分たちが幸せだと考えており、そこに何の違和感も感じていない。たとえ外部からやってきた人にはそれが明らかに異常に見えても、だ。このことはうかうかしていると気づくことすらできないうちにそのような堕落した未来を迎えてしまうことを表している。
リベラルな勢力が台頭するアメリカ社会はもちろんそういった危険性を十分にはらんでいる。しかし自らがリベラルであることを自覚しているがために、そうしたことの危険性には自覚的であるともいえる。すると、より危ないのは日本だとさえ言える。もちろん日本では先進的な治療法の多くを認めていないし、薬も認可していないものが多い。そういった点では保守的であり、安全だといえそうだ。しかしアメリカとは逆に、そうであるからこそ危険について無自覚なままでいる。実際アメリカでは大統領が今から10年以上も前になる2001年に「エンハンスメント」をテーマに議論するよう直属の諮問機関を編成して報告書を提出させている(「治療を超えて」)が、日本においてはそのようなことが行われたことがあるとも、試みられたとも聞かない。
加えて山中教授のiPS細胞の発見により日本は技術の進歩に浮かれてしまい、その促進へと闇雲に血道をあげている。かつて生命倫理の問題が個別の話題としてのみ議論されていたころ、クローン人間や万能細胞をつくることの直接的な問題点はヒト胚を用いることとされていた。ヒト胚という生命に分化する可能性を秘めたものを破壊しなければならないのであるのならば、そのような研究は進めてはならないという説明で、研究にブレーキがかけられていたわけだ。ところが、iPS技術は通常細胞から万能細胞を作ることを可能にし、そのストッパーをやすやすと取り払ってしまった。本来ならばここで立ち止まりiPS細胞が及ぼす影響についてエンハンスメント的文脈からもよく考えてみなければならないのだが、日本では長引く経済の停滞からの起死回生の一打としてiPS細胞を位置づけているために、またノーベル賞という後押しもあったために、そのような熟慮なきままに国民的熱狂のなかで政府がその開発を後押しする構図になっている。そのことが引き起こす帰結をよく考えないまま無計画に計画を推進したために破滅の危機を招いたという例は戦争然り原発然り過去無数に存在するが、その教訓が全く生かせていない。しかもiPS細胞はライフサイエンスにおける革命的存在で、そうであるが故にエンハンスメントにとっても計り知れない影響を与える。よく考えなければいけない。iPS細胞の製造とクローン人間の製造との差は紙一重だ。クローン人間があたりまえになる世界がくるのには拒否感があるのに、なぜiPSは大丈夫なのか。エンハンスメントの問題をここでよく考えなければならないのだ。


そうであるにもかかわらず、こうしたエンハンスメントの問題は医療側からはほとんど語られていないように感じる。それどころか、医療側からはこのような問題があるということすら認識されていないとさえ感じてしまう。先ほどのiPSの問題でも然りだ。問題について語るのは哲学者や倫理学者たちばかりだ。
ところが、「治療を超えた」技術を実際に開発するのは医療側の立場の人間だし、それを臨床応用してみるのも医療側の人間であれば、エンハンスメントが日常的に行われるようになった際であってもそれを実際に処方するのは医療側の人間なのだ。そうであるならば、この問題は本当は誰によって考えられるべきなのか。医療者が問題を認識していないならば、もはや問題は存在していないに等しい。それでいいのだろうか。これでは、気づいたときにはもはや後には戻れない状態になってしまっているかもしれない。

加えて、別の観点でも医療者こそがエンハンスメントについてよく考えなければならない理由がある。かつて、医療の役割は純粋に怪我を治療するということだけだった。ところが医学が進歩して行くに従い、医療が扱える分野も広くなってきた。現在では出産や性に関すること、犯罪行為での責任の有無やストレス、不安、アルコール依存について、痴呆や老齢、死などが医療の管理下に置かれるようになってきた。社会問題の原因が病気に求められるようになっていくことを医療化というが、次第に社会の医療化が進行してきたわけだ。ここからさらに、エンハンスメントを行うことが社会に許容されるようになってくると、この医療化がますます進行する。今までは医療の対象となっていなかった多くの領域とともに、「もっとよくありたい」という幸福追求の欲求までもが医療の管理下におかれるようになってくる。身体を鍛えたい人にはステロイド薬を。学業不信の学生には集中力増強薬を。不安を感じる人には向精神薬を・・・・。医師の権限は限りなく増大する・・・・。
かつて医学の目的が病気の治療であった際には、医師には取り組むべき対象が明確なものとしてあった。ところが医学が治療を超えるようになってくると、医師には取り組むべき対象が明確なものとして存在しない。それどころか、エンハンスメントの手段はおおくあるものの、それをするといったことがどういうことなのか、望ましいものであるのかどうかさえ分からない。医師は、果てのないエンハンスメントの海に海図なしで乗り出すしかないのだ。それもそれを自らの判断で自らの責任のもと行わなければならなくなる。
また、患者が病人からエンハンスメントというサービスの消費者へと変化して行くに従い、医療は聖なる職業からサービス業へと変容していき、医師ー患者という関係は単なる取引関係に変わっていくだろう。
現在でも医療費は支出のかなりの割合を占めているが、そうなった際にはその割合は今以上に膨らんでいるだろう。そういった世界で、医療者は今とは違う、国家の主要産業の担い手としての地位を占めることになっていくのだろう。これは医療関係者にとっては好ましいことのように思える。しかしこれは、「すばらしい新世界」への入り口かも知れないのだ。そんな世界が理想的だったのだろうか・・・・?医者は悪の司祭にでもなっていくのか・・・・?
エンハンスメントの問題は、このように、医療者自身のあり方にも変化をもたらすわけだ。そうであるのに、なぜこの問題について考えずなくていいのだろうか。


よりよい医療を提供することが、より悪い結果を招くかも知れない。 よりよくありたいという思いにどう向き合うか、そうしたことが今問われている。エンハンスメントという問題に向き合うことは、私たちがどんな世界を望むのかといったことに関する根源的な探索活動だ。どこかでエンハンスメントの線引きをすることも、あるいはすべてを禁止することも、はたまたすべてを認めてしまうこともできる。しかしどれを選ぶにせよ、それは人間の運命を左右する決断だ。神は死んだが、今我々は神になろうとしていると言える。我々は、この問題に真剣に取り組む必要がある。









参考図書を教えてくれとの質問に対して。

・マイケル・サンデルの『完全な人間を目指さなくてよい理由』
サンデル教授らしい具体例が語りかけてくる調子で書かれていて、僕がこの前の分科会で採用した具体例もこの本を参考にしたところがかなりある。というか、講演の具体例の部分にもうちょっと解説をつけたのがこの本というかんじだ。ただ、他の本と比べると大幅に議論が少なく、またサンデル教授が用いた哲学者ハーバーマスの分析は結局のところエンハンスメント推進論者と共通する考え方に基づいていると思ってしまうことなどから、僕としてはあんまりすきではない。それでも、日常的な感覚に訴えるこの本は非常にわかりやすく読みやすい上、図書館とかにもだいたいおいてあるようであり、とりあえず読んでみてまず損はない本だ。

・フランシス・フクヤマの『人間の終わり』
作者は哲学の素養ある社会学者で歴史の変遷について有名な著作のある人で、その文脈のもとで語られるエンハンスメント論はサンデルの議論よりもよりスケールが多きく壮大だ。講演の中では『すばらしい新世界』などを話した際の視点が、この本の軸となっているかんじである。その軸があるため、向精神薬などが人間に与える影響なども大胆に語ることができている。はじめは取っつきにくい本に思われるかも知れませんが、読んでいるうちに次第に引き込まれ、気がづくと世の中への視点が変わってしまっているような、そんな本。フクヤマの前作『歴史の終わり』(純粋に歴史哲学と社会学の本で難解)を読んでいるとより主張が響くと思うが、この本だけでも全然大丈夫だと思う。一番のおすすめ。

・レオン・カス『生命操作は人間を幸せにするか』
フクヤマ以上に取っつきにくい本だ。世界観は基本的にフクヤマと似ているが(というか、入門ではなくエンハンスメントを語るのであれば、サンデル的ではなくそのような立ち位置に立つのが自然)、またちょっと違うところが面白い。フクヤマを読んで余裕があれば、という感じだろうか。

・アメリカ大統領生命倫理評議会『治療を超えて』
たぶんはじめに読むのがこの本なら新鮮な輝きを放っているとは思うが、とりあえず上記の文章を読んでもらえた後の状態ならやたら分厚くて冗長でめんどくさいだけの本かも知れない。でも、サンデルもフクヤマもカスもこのプロジェクトに関わっている人間であり、具体例なども一番多く、議論も過激でこそないものの目配りが効いていて、コレクターであれば集めてもいいかもといったかんじ。

・東大のブックレット『エンハンスメント・社会・人間性』
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/publications/2009/04/enhancement_society_humanity_u/
全体では本一冊分くらいの量があるが、章ごとに分かれていて扱いやすい上、今すぐ読めるというのもまたいいところ。また、松田純や加藤尚武はいないものの、日本でエンハンスメントという言葉が出てきたらだいたい関係している人物が勢揃いしているのもまたいい。内容もよくまとまっていていいかんじ。ただ、上に上げた書籍などの分析などが中心で、メタエンハンスメント論的な雰囲気はちょっとある。

・SF小説
有名なところではHGウェルズの『タイムマシン』とか、アーサーCクラーク、ブラッドベリなどの有名なSFにはエンハンスメント的文脈が盛り込まれている場合がかなりある。フクヤマを読んでからSFを読めばそう思わずにはいられなくなると思う。『すばらしい新世界』なんかもそう。(エンハンスメントがメインテーマの映画ってのはよくわからないが、SFにはだいたいその価値観がはいってるから、そう思ってみれば映画にもエンハンスメントはたくさん盛り込まれている。)
しかし、やはりなんといってもすごいのはそういった世界観の元祖ともいえるオラフ・ステープルドンの『最後にして最初の人類』で、エンハンスメントの視点をもってこれを読めば、エンハンスメントが招きうる二つの未来についてのイメージが自然と膨らんでいってしまう。


かくいう次第でとりあえず思いついたメジャーなエンハンスメントに関する書籍を列挙した。
結局、
(サンデル)→フクヤマ→(オラフ)
といったコースが結局のところ僕の一番の一番おすすめということになる。

Related Posts

Thoughts on スポンサーサイト治療を超えてーエンハンスメントについての警句

Leave a Reply

* less than 16 characters
* less than 24 characters
* less than 16 characters
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。